雑事妄言

雑多な話題に顛倒した言説を (´A`)/

他力と内省

人間が悪−人間というものの根本的な存在欠如−を直に自覚(懺悔内省)するには、超越者の存在が必要だと思うのです。

ただ、超越者を概念的に必要とするだけなら、それは自己を超越者に模しているだけなのか違うのか、この区別がつきませんので、自己を欠如として映し出すような「光」と出会い、そこで自己を含めた自己の世界が初めて違ってみえると思うのです。

自己が自己を裁いている限りでは、自己は神を演じるだけで、どんどん自己から遠ざかっていくのです。と言うのは、前を参照してください。


弥陀は懺悔に先立つ、と思うのです。

自己の現状が見せ付けられる「他なる」超越的視点と出会う−一体の体験−がなければ、直の内省など不可能なのです。

だから、まずは何であれ救われなければならないのです。ここに絶対他力の持ち味があるのです。

(ただし、絶対他力的に救われると言うには「偶然」が必要です。こちらの意図を超えているのですから、偶然でなければ、救いの絶対性が保障できない)


さて。超越者を要請しない仏教(←初期の)の場合は、その倫理は、一人称的な反省に価値を置かない、無我−行為、という理になるわけかと。



このいずれの倫理の形態も、人生には必要なのかなぁ…とぼんやり思う日々です。
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反省

「反省」というのは、美徳だとは思うが、厄介なものである。


反省と言うのは、自己の悪に対する自覚、にとどまらず、悪を悪だと認め、それを改善すべきであるとする態度である。

しかし、反省と言うのは、一方で自己の悪性に後悔しながらも、それを「裁く」自分がいるのである。この分裂的な構造は超越者を介しても同じである。

悪性としての自分と、それを裁く良識的な裁判官としての自己を演じなければならないのである。

少なくとも、悪への後悔を発露することは、その後ろに良心をちらつかせることでもある。それを超越者の力だとしたら、自己を超越者に同化させている。


勿論、自己の失敗を認め、どうやったら次に活きてくるのか、このような反省は何の倫理的な善悪もない無記的なものであると思うが、問題は、反省する(自分を断罪する)人間の自己逃避である。

一度、悪を自覚したら、悪性としての自己、もしくは良識的な裁判官、ここにはもう自分は戻れない。

どっちか一方になるのでもなく、どっちも演じるだけでは済まされず、それを見る観客−という名の演出家−でなければらない(悪性、良心、この二つだけしかなくかつ並存するのであれば、自己は分裂的な自我交換をしていることになる)。

演出家としての観客席、ここが自分の特等席なのである。この特等席に一度座ってしまえば、もはや自己に対して「他者のまなざし」で生きるしかない。

こうやって、どんどん自分としての悪から、自分は遠ざかっていくのである。しかも、絶対に遠ざかることを許されず、悪性を演じなければならない、という呪縛を持って。


初期の仏教倫理に、あまり内省的懺悔を痛烈に勧めた、というのは無いように思う。

私の勝手な解釈ではあるが、自己をどれだけ内省的に懺悔自覚できるか、と言うより、自他に開かれた形での「行為」(←事実)として善悪を問題にすべきだ、という倫理観なのではないかと。
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高貴なる傲慢

前回のをちょっと補足する感じで…。


人に気高く気遣う、という自己の「行動」を通して、相手を創るのです。他者のまなざしを気にする行動によって、相手の主観性をひとつの型にはめるのです。

主観を譲り渡した態度で、実は、主観を創ってしまうしたたかさが高貴なる傲慢なのです。


これはこれで、アリなのではないかなぁ…なんて思ってしまうのですが(・ω・)
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まなざし

サルトルの「存在と無」が以外に面白いなぁ…と読み終えた小雨です。うん。サルトルは独我論を打破しようとしながら、一番独我論を考えていて、その両方の限界にぶち当たったような印象を受けたのでした。。。


…ということで、以下はサルトルの議論を踏まえているのですが、議論をすっ飛ばし+簡略化してるので、意味が分からなかったら、ごめんなさい(汗


自分が主観性を有する→ということが意味するのは、自分が世界の限界点として世界を構成・道具−複合的に意味を付与するものだとします。

要するに、世界を目的的に把握して、ある「もの」を「〜のためにあるもの」である、と状況化、把握できるわけです(そうとしか、対象把握できない。目的の光に照らされないものは、「ただある」ものとして見られ、これこそゲシュタルト崩壊なのではないかと思うのですが)。

しかし、この「私」を含めた世界を意味づけることは「私」には出来ないのです。

世界を対象的に捉えているそのときに、そこに主観である私はいないのです。ゆえに、主観がある、と言うのも実は半透明的な正解というところでしょう(自己は、常に認識の限界、否定として世界を超出したものとしか捉えられない)。


そこで、自己の意味を付与するには、自己の世界を主観的に見る、つまり自己の世界を対象化する他者の世界の中に紛れ込むわけです。

しかし、この企ては必ず失敗します。

たとえば、他者からのまなざしに非常に律儀な人がいます。まぁ、私もその気が強い人ではあるのですが。。

これは媚びるというよりは、普通に、人が不快にならないように、その場にふさわしくない行動を慎むというただそれだけのことです。しかし、そのことには、他者のまなざしが意識されているのは言うまでもありません。

他者のまなざしを通して、自分の世界を俯瞰して、自分に意味を付与しようとするのです。

が、しかし、このときすでに、他者を対象化し、支配しようと自分が世界を認識−捕食しているのです。


他者を「意識」すればするほど、他者から逃れて「他者−自分」を構成してしまうというパラドックス。本当に他者−従属的な人は、他者に従属しているという意識、すなわち嫌悪も喜びもないのです。

さらに言えば、ここに第三者のまなざしが加われば、自分を構成するための二人称的な「さっきまでの」他者は、構成されるべきもの、に成り下がるのです。


こうして、自己の意味を絶対構成する、絶対主観的な「神」が必要になるのも分かるのですが、神を意識するものはもはや神の面前にはいないのです。


さて、だから、人生に意味を付与するのではなく、人生を無条件に受け入れろ、と説く人もいますが、これに問題がないかといえば…ちょっと考えるところはあるのではないかと思うのです。これについてはまた後日。
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小雨、復活しました。ということで、再びよろしくお願いしますm(_ _)m


昨日あった話から書いて見たいと思います。

ある人に、まったく宗教とは無縁な方に言われたのですが、
カルト集団にはまっていく人たちに対して、既存の宗教者はその原因をしっかり明らかにしなければならない、なぜ自分の救いでは救えなかったのか、と。

まったくその通りでしょうね。あれは仏教ではない、と非難するだけでは解決できない問題というのがある、これは仏教徒は知っておくべきでしょうね。いや、仏教徒に限りませんが…。


でも、正直、宗教の問題は二次的であるとも思うのです。

カルトに進んで志願していく人間が、まず拒否したのは何も既存の宗教ではないのです。彼らがまず拒否したのは、我々が当たり前だと思っている普通の生活なのです。

世の中には、人といることが楽しい、みんなと一緒にやることが苦痛ではない、受験勉強だってそれなりに楽しい、人の役に立てれば最高だと思う、と直感的に思う人がいると「同じように」、直感的に、それらすべての意味を考えてしまう人間がいるのです。

まじめに人生を考えたいのに、それを陰険だとする環境、それは宗教だと危なく見られる環境、そんな状態で真綿で首を絞められるように苦しんでいる人がいるのです。


「みんなで楽しくやること至上主義」、みたいな状況から必ず外れている人間がいるのです。それを発達心理学的な視点で見てしまうのもどうかと思います。その人の心がどうであれ、人生への「問い」自体の正当性を奪うことは出来ないでしょう。


もちろん、だから宗教は間違っていない、というのではなく、心身ボロボロになるような危ない宗教に走らせたなくなかったら、普通の日常を普通に楽しめる人間が、なぜそれが楽しいのかを、せめて一緒に問うて欲しいのです。
(普通に人生を楽しめる人間を無理やり、マインドコントロール的に危機感を募らせる宗教は、この宗教団体自体が対策されるべきでしょうが)


まぁ、といいつつ、自分の幸せの根拠を示すということは、幸せの劣化でもあるような気がしますが(自分の幸せは無条件ではなく、ある何かに依存しなければあり得なかった、ということが分かってしまうから)。いや、それでこそ問いに引きずられ、問いが深化していくというものでしょう。
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