雑事妄言

雑多な話題に顛倒した言説を (´A`)/

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虚空

見らぬ世界、手の届かない領域があることを知る、というのは難事である。が、人生にとってこれほど大事なこともない。

確かに自分が考える世界以外に世界はない。自己の心理や言語によって世界は解釈されるしかない。いや、自己が限界点となって、世界は自分に解釈された(限定された)世界としてある、としか見れない。

しかし、地平線が、「向こう側に見えない世界がある」という前提なくしては成立しないように、私は「そのもの」として捉えることが出来ない世界、を限定することで解釈された世界に住まうのである。

つまり、限定する、というのは、「何か」を限定しているのであり、手の届かない―虚空―の領域を暗に前提としているのである。

そして、この「何か」は、永遠の謎として、無として私たちを包んであるのだ。



私たちを包む無は、無理に解釈しようとどれだけ力んでも、最後は必ず拒否される領域であり、これは私の世界を不安にさせる要因である。だからといって、何もしないでもいられない。

だからこそ、無の領域があることを確認しながら、穏やかに虚空に自己を開放している必要があるのだと思う。これは諦念であるが、呆然と何もしないのとは違う(何もしない、考えないこと=無の領域が自己に忍び寄ることを拒否する姿勢であり、諦念ではない)。


「布施」とは、そんな私の解釈の届かない、虚空の領域に石を投げかけて、虚空からの響きを積極的に待つことなのだ(これが自己を開くということ)。
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近況?

近況!というほどのこともないのですが、ちょっと忙しくろくに更新もしていない状態です。(汗)

近々、更新したいなぁ…と思っております。って、それだけの近況ですいません。(汗)
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不真面目さ

私の好きな「ふまじめさ」というのがある。

不道徳に悪びれるのは、「ふまじめ」ではない。それは、「まじめ」の一種であって、道徳的な存在の価値を強く感じることを前提としなければ成り立たない反発である。

道徳的価値観に親近感を持つにせよ、嫌悪するにせよ、道徳的価値観を前提とすることから離れない人が善人だ。


私が言いたい「ふまじめさ」とは、善も悪も取り敢えず観察対象として見てしまう、一種のまじめさだ。

何かひとつの価値体系−たとえば道徳−を観察吟味するには、それを測るための別の、メタ的な考え方、論理が必要であり、そういうメタ的な世界への無限進行的探究心、まさにユートピアを求めるような思念が必要である。

本人はいたってまじめだが、この態度を世間的には現実(実用性)から離れた「ふまじめさ」と言うのだろう。


こういう人間には、不気味に面白い心の落ち着きがある。何が起きても「ありうる」というだけの思考力を持っているし、逆に「ありうる」しかないという現実の必然的な構造は何かを考えているから。
これが社会的有事に対する強さであり、唯一社会に貢献できる「ふまじめ」の道かもしれない。
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裁く

人を裁く、…だけではなく物事の価値を裁くことも含めて、「裁く」ということは人間独特の趣があるのです。


それは、裁く人間が、裁く側だけではいられない、という構造です。

対他存在、と言いますか、裁く人間は、他者を裁くと同時に、もっと大きな時間の流れ、歴史性、他者の前に現前して、裁かれるときを待つ存在なのです。その決断は本当に正しかったのか、と。

そして、人は裁かないことも出来ない。裁かないとは、別の意味での裁きであり、決断であるからです。


そのままの存在から脱自と化して行く人間の存在は、「裁く」という超時間、超越的な視点(行為)に何か、不思議とその存在構造が表れてくる気がするのです。
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問答

「問」と「答」という存在は、簡単な一対の存在ではない。

本当の問とは、根拠を破壊するものでしかない。いや、根拠に到達することを拒否するところに問の存在がある。つまり、不動の根拠に到達することは、問の自己停止でしかない。
(「問」が不断の自己否定的要素を免れないことは、アルバートの指摘するところ)

ここに、「求める」前提としての「求まる」を放棄しなければならない「問」の矛盾的存在がある。

だが、しかし。「答」との無限の距離を有しながらも、「問」は常に「答」の前「である」しかない。

「問」が常に「答」を振り切る存在として存在できない以上、問は答「について」現前する存在として、「答」と「なり」、「答」を対象化することで、脱対象化して無限の距離を保つのである。

「問と答」という二つの存在があるのではなく、「問」の中に、「問と答」という二重の存在があるのである(完全に答を否定し切れたら、問の消滅、無根拠の完全態になるだろう)。…と考えるだけですけど。
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